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選挙、行ってますか?

引用:総務省


おはようございます。
こんにちは。こんばんは。



突然ですが、皆様は選挙に行ってますか?


選挙権は放棄せず行使した方がいいと思っていますが、特段必ずそうであるべきだ、と私見を押し付けるつもりはありません。


ただ、最近ふと思ったことがあります。



選挙権の拡大


昨今の政策で18歳まで選挙権が拡張されました。これには多く賛否両論があったようです。



実際、政治に興味や知識を持っている18歳周辺の人ってどのくらいいるのでしょうか?


厳しい見方かもしれませんが多くの若者(10〜20代)は、政治に対する関心や意識が希薄なのは明白です。それが選挙の投票率にも関係しているのも確かです。


それなのに、18歳にまで選挙権をいたずらに増やしてしまって何がどうなるんだ?大して投票率も上がらないだろうしもっといえば集団に属する人間(高校・大学など)としての組織票になってしまう可能性もある。何を持って選挙権を拡大したんだろう?


こう思っていました。


ですが何がきっかけかは忘れてしまいましたが(オイ…)私の考え方に変化がありました。




こうするしかなかったんじゃないか?と。




我が国の民主主義



理由は、いわゆるシルバー民主主義を是正するために選挙権の若年層比率を底上げするためと勝手に推測します。


民主主義は、基本的に多数決で議論が決まります。国民の意見を代表する政治家さんたちも多くの人民の多数決で選出されると行ってもいいかもしれません。


今、日本の人口における高齢者の比率は相当高くなっていますよね。(平成26年の段階で全人口における65歳以上の割合は26%)


人口ピラミッドの図を見ても、若年層が少ないのがわかりますね。


さらに国政選挙の年代別投票率は、平成26年12月に行われた第47回衆議院議員選挙では、20歳代が32.58%、30歳代が42.09%、少し飛びますが60歳代は68.28%になります。全体の投票率が52.66%なのを考えるとかなり偏っているのがわかります。


政治は、国民の意思の代表者たちが戦う場でもあります。代表者、すなわち政党は支持する国民が多ければ多いほど政治的実権を掴むことができます。その国民の「票」が大事なんですよね。
「票」を持つ国民の期待に応えることで、政党は成り立ちます。期待に沿えなければ国民は支持をやめ、票は別のところに行ってしまいます。
ここに、国民と政治の歪みが発生しているのです。政党が国民の意思を代表して政治を行うはずが、国民の顔色を伺いながら政党が多くの有権者に気に入られるための政策をとる、ということです。


有権者のうち、投票率が高いのは高齢者層の方が多くなっています。有効な票は、高齢者層の方が持っている。では、政治を円滑に行うためにはどのような政策を取れば良いか?…というものが見えてきます。


高齢者層に絶対的な票数、そして投票率が偏り、多数を占める高齢者層本位の政策が優先される状態を「シルバー民主主義」と呼びます。


これは決して高齢者を排除したり拒絶しようというものではありません。若年層が相対的に少なく、投票率が低いことが問題なのです。年齢別人口から考えて絶対的な票数が少ない若者たちは、そもそもその意思が政治政策に届きにくいのです。だから選挙に行っても無駄だと思うようになり、さらに投票率が下がり余計に意思が反映されなくなります。


この度の選挙権の拡大は、少しでも前提である若年層の票の絶対数を増やそうというものではないか、と思うのです。高齢者をないがしろにするわけにはいきませんから、自ずと逆方面の政策、票を失わないような政策をとらざるを得なかったのでしょう。


今、日本は75歳を80歳にするお金はあるのに0歳を5歳にするお金がない国になってしまっているように思えます。
高齢者は切り捨てろ、というわけではなく、若年層に目を向けより国民全体に利益をもたらすようバランスを考えて政策を取っていかなければなりません。



過去から学ぶ



柳田國男の著書『農政学』に次の一文があります。


「一国の経済政策はこれら〔農工商〕階級の利益争闘よりは常に超然独立して、別にみずから決するの根拠を有せざるべからず。何とならば、国民の過半数もしくは国民中の有力なる階級の希望の集合は、決して国家それ自身の希望すべきものなりという能わざればな り。語を代えて言わば、私益の総計は公益にはあらざればなり。極端なる場合を想像せば、たとい一時代の国民が全数を挙りて希望する事柄なりとも、必ずしもこれを以てただ ちに国の政策とはなすべからず。何とならば国家がその存立によりて代表し、かつ利益を 防衛すべき人民は、現時に生存するもののみにあらず。後世万々年の間に出産すべき国民
も、またこれとともに国家を構成するものなればなり。」


要約しますと、
「一国の経済政策は階級間の利益闘争から独立した根拠を持って行われるものでなければならない。国民の過半数、もしくは全ての有力な地位の意思は、国家が真に求める意思とは限らない。私益の総計は公益になるとも限らない。極端に言えば、たとえその政策を国民全員が希望したとしても、これをすぐに実行に移してはいけない。なぜならば、国家がその存在によって代表され、その利益を守るべき国民というのは、現在に存在するそれらのみではない。後に生まれ出ずる数多の国民たちも、今を生きる国民と共に国家を構成しているのである。」



だいたいの意味はつかめたでしょうか。明治から昭和にかけて生きた民俗学者が、このような聡明な見解を示していたと思うと本当に胸がいっぱいになります。


この文章の最初、「階級間」とありますね。昔は農工商という大雑把な職業区分けがされており、これらの格差と優位性からくる政治政策の歪みを是正するものだったのでしょう。


この「階級間」を「世代間」とか「年代間」に変えると、現状に全く同じように言いたくなるような文章になりませんか?


今に生きる国民は等しく国の宝であり平等に利益を享受することができるはずです。しかしながら現状の選挙制度では年齢別人口の偏りからかなり不公平な扱いを受けてしまっている層がいるのです。完全に平等という政策を取れる国家はいないでしょうが、民主主義は完全なモノではないことが如実に露呈しています。


柳田國男の先見の明というのは、やはり将来生まれてくる国民たちをも考えて政治をしろというところでしょう。人間は見えないモノに対して無頓着になりがちです。生まれていない国民も見えないですから例外ではありません。そこにスポットを当てているというのは、今の政治家さんたちも参考にすべきところですね。



加えて、人間という生き物はゆっくりとした変化に対して本当に無頓着です。少子高齢化や環境汚染、地球温暖化の例をあげればキリがありません。問題が表面化して初めて気がつくのです。しかも、気づいてもなかなか動けないのですから困ったものです。


私も小学生の頃の夏休みの課題、まだ日にちがある、まだ日にちがあると思って後回しにしていて3日前くらいに始業式の日まで徹夜しないと間に合わない状態に陥ったものでした。しかも毎年のように。変化が緩やかだと人は本当に動けないのです。



もう一つ、人は一番大事なものは自分自身(の命・生活・豊かさ)です。例外もあるかとは思いますが。物心のついた子供から意識のある高齢者まで、およそ全ての人は自分が大事なのです。自らを犠牲にして他人に尽くし続けるなど簡単にできるものではありません。これが心が狭いとかボランティア精神がないとか人間がちっちゃいとかいうのも間違いだと思います。人間として当たり前の思考じゃないですか自己防衛・自己保存って。


だからです。いくら国民に少子高齢化だ、社会保障の維持が厳しい、シングルマザーや低所得者への救いの手を、と新聞で報じてもテレビで特集が組まれても高齢のおばあちゃんは自分の生活が第一だしキャリアウーマンは子供を作るのは後回しで働きたい。
そう行った自分本位な思考は当たり前ですから、これを理解した上で政治を行うべきなのだと私は思います。


この大前提がある状態で有権者に何らかの偏りが出てしまうと、たちまち政治の歪みが発生します。国家はまず、国民に平等に政治に参加する権利を持ってもらうだけでなく、より建設的で、持続可能な政治制度を構築し直すことが急務です。10人の赤ん坊と100人の高齢者しかいない世界で、10人の赤ん坊がないがしろにされてはいけないのです。その個人の持つ自分本位という前提から独立した政策を取れるのは国家だけなのです。国家は人間ではないのですから。





長文失礼致しました。
今回はこの辺りでお暇します。
ありがとうございました。








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