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ワカモノの「〇〇離れ」への回答

↑若者のビール離れは顕著なようですが…


おはようございます。こんにちは。こんばんは。


今回は私が常に疑問に思い、時に苛立ちをも感じる内容です。多くの方にお読みいただき、ご意見を頂けることを強く願っています。長くなりますがどうか御一読ください。



若者は「無関心」なのか


昨今、若年層における「〇〇離れ」が問題視されています。それは「ビール離れ」「車離れ」など色んな種類に渡っているようですが、これらは各カテゴリ毎に原因を求めるのではなく、若者がそういった物事に対して何故無関心・無関与であるのか、もしくはなぜそのように見えるのかが焦点ではないでしょうか。


それについては私なりに1つの回答を出しております。
前回記事にて、それは「所得の低迷による相対的貧困」であると述べました。




相対的貧困により、若者は趣味や余暇に費やす経済的余裕がなくなるため、様々な「〇〇離れ」が発生します。それは単一に無関心からくるものではなく、趣味という一種の贅沢をしたくてもできない状況ということになります。
厚生労働省の「毎月勤労統計調査」によれば、これは若者に限ることではありませんが労働者の平均年収は、実質賃金ベースで1997年417万円だったのに対し、2015年には360.2万円まで減少しています。
加えて、日本の消費者物価指数(CPI)は、2015年を基準値(100.0)としたとき、1980年は74.47、1990年は91.25と、年数を重ねるごとに上昇し、最近こそ横ばい傾向になりつつありますが、実質賃金が低迷しているにもかかわらず、物価が上がり続けていたことがわかります。この点からは、国民は等しく過去と比べ「相対的貧困化」が進んでいるということになります。
しかし、この弊害を一番に受けるのは今を生きる若者たちです。なぜなら、俗にいう「古き良き時代」を現在の年配の方々は生きてきています。ある程度勤続年数も経てばそれなりの資産を形成できるでしょう。金銭的な充実は、日々の生活での安心材料になります。ですが、若者にはかねてからの資産がない。金銭的な後ろ盾がないのです。だからこそ、今を生きる若者は「相対的貧困」の色が強いのです。

しかしこれは、あくまで結果として生じた一つの「状態」であり、貧困であることをどうにかしようとなると、どうしても弥縫策(びほうさく)のきらいがあります。そこで、今回の記事で「相対的貧困をどう改善するのか」ではなく、「なぜ相対的貧困は生まれるのか」という根本的な部分に焦点を当てていこうと思います。




貧困を生むもの



では、なぜ所得が低迷し、相対的貧困が発生するのでしょうか。



それについて私の回答は、若年層の高学歴化です。



ピンとくる方もいらっしゃるでしょう、しかしなぜ高学歴化が相対的貧困を生むのでしょうか。確かに、高学歴化は日本という国の力そのものになり得る重要なファクターではあります。
しかし、現状の日本の大学には大学という名ばかりで、入学させてからほとんど面倒を見ないおよそ教育機関とは思えないようなところも存在します。同様に、とりあえず何処かしこの大学に入ってろくに勉強もせずあそびほうける学生も少なくありません。
国内に大学が増え、今や50%を超える子供が大学に進学しているというデータもあります。これらが大卒を氾濫させているのです。
かつて、大学は限られた人間しか進学することのできなかった「教育機関の最高峰」に位置するものでした。それが、現在の日本では18〜22歳の子供とも大人とも言えないモラトリアムな人間たちの逃避場所になってしまっているのではないでしょうか。
そして、その逃避場所に滞在するにはかなりの費用がかかります。国公立はさておき、私立大学の学費というものは馬鹿になりません。それを負担するのは多くが当人の両親になります。
ここで、両親の経済状況では大学に行くことができない子供たちが考えられます。そうした経済格差による教育の分断を回避すべく作られたのが「奨学金制度」です。問題はこれです。
奨学金には無利子・有利子の大きく分けて2つの種類が存在します。無利子はまだ教育の場に進めるように用意された感がしますが、この、有利子の奨学金というのがどうにも頂けません。学生を助けるはずのお金に利子をつけて、後の彼らのもらうなけなしの給料から吸い上げようとするシステムに義憤すら感じます。ですが、こうも大学進学率が上がってくると、無利子の奨学金ではカバーしきれないし、なにより利益もなしに金を貸してくれるところなどそうそういないとなればそれまでです。
ならばどうするか。誤解を恐れずにいえば、「大学など進学せず、高卒で働き始めればいい」と私は考えます。
もちろん、大学での勉強を強く望む人間にはしかるべき支援をすべきだと思います。しかし、本当に大学に行く意味があるのでしょうか?本当に勉強したくて大学に行くのでしょうか?
「周りの友達が大学に進学するから」ではないですか?
「就職するには大卒が有利だから」ではないですか?

まさにこれが現在の日本に跋扈する「大学ビジネス」により歪められた認識だと思うのです。
子供や親に対して「大卒資格を持っていないと良い就職先には就けない」と煽り、しかし国公立大学の定員にはかぎりがありますから、学力や意欲の及ばない子供が大学に行くとなれば私立大学になり、そこで親の経済状況的に学費の支払いが厳しいので奨学金を借りさせ、子供が社会人になったらそこから返済するといった流れです。
これがどれだけ無駄なことをしているかわかりますか?
人間には個人差があります。頭の良い人がいれば、悪い人もいる。大学はその分野において知識・理解を深めたいという強い知的好奇心を満たしてくれる素晴らしい教育機関です。そしてそれを求める人は少なからず学力というか、考える力・知識を持った「頭の良い人」であると思うのです。
誤解のないように言い添えておきますと、単にバカは大学なんか行かずにさっさと仕事探せ、という意味では決してありません。
私が言いたいのは、氾濫する大学が、「高学歴社会」が、大学に進学するのは当たり前、しなければろくな就職先もない、という歪んだ常識を流布したせいで、本来適切だった教育過程が瓦解しかけているということです。
事実、リクルートのサイトなどで求人を見てみると、その条件に「4大卒」の資格を必要とする企業は少なくありません。ほらみたことか、やっぱり大学に行かせなきゃろくな就職先はないだろう、とお考えになるかと思います。
しかし、この状態こそが狂っているのです。本当に狂っている。なぜならほとんどの企業が、特に文系大学卒の採用条件に「大卒」が入っていますが「学部・学科は問わない」も入っているんです。これが信じられますか?なんでもいいってことですよ?
そんなこと言ったら本当に大卒という資格を取るために何百万もの借金をして大学に行っていることになります。
企業側は、必ずしも大卒を採用要件とせず、要件とするならばその理由を明確に示した上で採用活動を行うべきです。企業のとりあえず大卒、という安易な選択こそが今般の若者を苦しめているということをどうか理解して頂きたい。
極論ですが、世間には名前を書きさえすれば入学できてしまうような大学が存在します。「教育機関の最高峰」たる大学に「名前パス」だなんて言語道断です。そのような社会的に必要性の欠ける大学・学部・学科は駆逐されてしかるべきです。それこそ安易な大卒資格を与える温床になっているのですから。人口は減っているのに大学があちこちで増えている。これは明らかに「高学歴社会」にあやかる教育意識を煽ったビジネスです。


私自身も大学卒業者ですが、その大学で私はシンガポールと日本の教育制度について調べたことがあります。シンガポールは、全体におけるわずか1割以下の人間しか大学に進学することができず、その選抜は小学校の頃からスタートします。
大学に行く人間は待遇のいい国家公務員などの高級職が約束されると同時に、高いスキルを求められます。シンガポールの大学生のほとんどの人は、アルバイトをしていません。そんなことをしていたら大学の勉強が間に合わないからです。経済的に厳しい家庭には国からの支援があります(無償)。
翻って日本の大学、大学生はどうでしょうか。高校さえ卒業してしまえば、名前を書けば入れてしまうような大学があり、学生のアルバイトは学習意欲に反比例して高い。勉強しに大学に行っているのにアルバイトばかりしている人たちを何人も見てきました。バイト代から学費を支払う訳でもなくです。こうした「大学」への存在意義の違いに私は心底驚かされました。日本の大学とシンガポールの大学では天地の差があります。それでは小さな小さな国シンガポールに一人当たりのGDPで日本が負けるのもごく自然なことだと思わざるを得ません。



人生のGWとは良く言ったもの。



借金(奨学金)の他にもう一つ重大な問題があります。



それは、「時間的損失」。



大学は修了過程に4年を費やします。
この4年間は、統計的には生産年齢人口にすでに属している年齢です。生産年齢人口とは経済学用語の一つで、国内で行われている生産活動に就いている中核の労働力となるような年齢の人口のことを言います。つまり、貴重な労働力を、勉学のために犠牲にしているのが大学生という見方ができます。
4年も働けばある程度の資産ができると考えられます。それでもそうせずに大学に行くのは、卒業資格によってより良い待遇の職業に就ける「可能性」が上がるからです。だからこそ高い学費を支払って大学に行くのです。もちろん、単純に学を深めたいからという理由で大学に進学する方もいますが、そうは言っても人間生きて行くためには働いていかなければならないので、勉強したい!という理由で入ってもそれによって得た大卒資格及びスキルは、結果的にその人のより良い就職先に就くのに役立ちます。
 さて、先ほどより良い待遇の職業に就ける「可能性」が上がる、と言いましたが、これが可能性出ないならば今まで私が言ってきたこと全てがひっくり返ります。ひっくり返らないのは、それが「可能性」に過ぎないからです。
日本には平成26年度の時点で全産業で5,779,072の企業が存在します。この企業が全て、良い待遇が保証されているならばなんと素晴らしいことなのですが、現実はそうではありません。資本主義という社会構造では、必ず勝者なる者と、敗者なる者が存在するのですから、全て等しく待遇が同じになるのはどうやっても不可能です。
それこそ全て待遇を均等にする社会主義になれば、旧ソ連のように全体の生産性が落ち、国家として成り立たなくなります。悲しいことですが少なからずの格差は、健全な資本主義を形成する上で必要なのです。だからこそそう言った格差の問題は国家の喫緊の課題ですし、資本主義をとる政府は重大な責任を負わなければなりません。
このような資本主義の中で、「より良い待遇の企業」というものは限られてきます。しかしながら今般の大学と大学進学率の増加により、それらへ就職したいという人間の倍率が異常なまでに上がっているのです。どんなに真面目に勉強をし、最高の成績を修めて大学を卒業したとしても、より良い企業に就職できるのは100%ではないのです。
増え続ける大卒資格者の中で、名前さえ書けば入れてしまう大学から出た人たちは、そうでない大学の人たちと一応は同じスタートラインに立つ権利を持つことになりますが、果たして就職活動で戦い勝つことができるのでしょうか。かなり厳しいのではないかと、私は考えます。思うに企業が学部学科及び「大卒」以外の学歴を採用基準にしないのは、学歴によって足切りをしてしまうと、偏差値の低い大学に人が来なくなり大学ビジネスが成り立たなくなるからではないかと勘ぐってしまいます。
その真偽は定かでないにしろ、もしそう言った戦いに負けて、あまり待遇の良くない企業に仕方なく就職した人が、有利子の奨学金を借りているなら、これが最悪のケースとなるわけです。
今般の労働社会では、たとえ大学を出ても年収が300万にも満たない激務・残業・休日出勤がある企業で働かざるを得ない人たちがゴマンといるわけです。
日本経済が頭打ちになっている以上、大卒資格者が増えれば増えるほど奨学金の利用件数は増え、上記のような「敗者」も増えるということです。自らが高卒で苦労した親が何としても子供を大学に行かせようと奨学金を借りたはいいものの、就活戦争に負け劣悪な条件下での労働を強いられる羽目になれば、誰に泣きついていいのかわかったものではありません。
『ある程度学力のあるものしか大学へ進学できない。』
このようなルールを決めたとき、あなたはどう思いますか。差別だと思いますか。しかしよく考えてみてください。上記のような歪められた教育システムでは、なまじ学のない人間を徒らに進学させるのは危険だということをゆめゆめ忘れないでください。可愛い我が子に一流の教育環境を与えてやりたい気持ちはよく分かります。しかしそれが結果的に、親も、子も、どちらも苦しむ結果になる可能性があることを忘れないでください。
そして現行の教育制度は、こうした歪んだシステムを是正して行かなければなりません。本当に必要なのは、「全ての人に等しい教育を施すこと」ではなく、「全ての人に、各々の能力に応じた適切な教育を施すこと」ではないでしょうか。



別カテゴリですが。



さらに、経済面以外でも大学ビジネスの弊害があります。


それは、晩婚化



18〜22歳といえば、結婚の適齢期です。一番健康な子供を産める年齢である期間に無給である学生をするということは、その間に結婚する可能性を皆無にすることに等しいと思います。
では、無事大学を卒業し、就職して仕事を始めたとします。
最初は仕事に慣れ、社会人生活に慣れなければいけないので相手がいてもおいそれと結婚はできませんよね。
さらにそこに奨学金の返済が加わるとなかなか経済的余裕が生まれず、結婚にはお金のかかることが多いのでこれまたすぐにはというわけにはいきません。


この 大学在学期間+奨学金 という組み合わせが著しく晩婚化を招いてると思うのは私だけでしょうか。


結婚に関しては個人の自由の選択ですので、強制すべき論題ではないのかもしれませんが…。




まとめ


さて、長いこといろんなことを言わせてもらいましたがいかがでしたでしょうか。皆様の感じたこと思うところを是非ともお聞きしたく思っております。教育問題は私にとってもとても身近になり得る議題であり、無関心ではいられません。これから大学に行こうとしている人、子供を大学に行かせようとしている人、子供を大学に行かせた人、立場によっていろんな主張が生まれるのは当たり前です。私も自分の考えに独りよがりにならないよう、皆様にご教授願います。




当記事をお読みいただきありがとうございました。



それではこの辺りでお暇します。
長文、乱文失礼致しました。

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